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2007/02/24 22:24
本日は江戸処払いポタと本郷文学散歩ポタを決行しました。
総勢14名(途中参加退出含む)
「本郷もかねやすまでは江戸のうち」
江戸時代、罪人が市中引き回しのうえ獄門打ち首になると、本郷も引き回しルートとなりますが、軽い罪の者が江戸処払いになるとき、中仙道からの処払いの場所でもあります。
実際の場所は菊坂入り口付近かもしれません。
ここに昔は加賀屋敷(現東大)から小川が流れており、少しへこんだ場所になっていて、両側が坂で橋がかかっていたそうです。
本郷三丁目の交差点から江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれました。
ここから旧中山道を罪人の気持ちになってポタってみますw
本郷三丁目交差点兼安(かねやす)から出発し本郷追分から左に折れて白山通りに向かい、しばらく白山通りを走ってから巣鴨から巣鴨地蔵通りに入ります。
地蔵通り商店街は混んでいます。
4のつく日は縁日の日です。
しかも土曜日と言うことで朝10時の段階でこういう状態です。
高齢者の皆さん朝が早いです。
地蔵通り商店街は中仙道の本来の道です。
道沿いにお寺が多いことがわかります。
庚申塚からまっすぐ行くと板橋駅に出ます。
『江戸には3つの御仕置場があり、東海道の「鈴ヶ森処刑場」、奥州、陸羽街道の「小塚原処刑場」、中山道の「板橋処刑場」と、いずれも江戸に入る街道の要所に処刑場がつくられていた。要所の街道沿いに処刑場をつくったのは、みせしめの効果を狙ったものである。処刑場では磔,火あぶり、獄門などの御仕置がおこなわれていた。当初、板橋処刑場は鈴ヶ森処刑場や小塚原処刑場のように処刑場として決められた場所があったわけではなく、宿場からはずれた街道沿いの空き地を転々とし、処刑していたことが多かった。しかし、のちに現在の豊島区西巣鴨3丁目辺りに首切りの獄門台がつくられた』
のだそうです。
立正大学そばの交番の場所が処刑場跡だとのことです。
板橋駅前の寿徳寺の境外墓地に「近藤勇の墓」があります。
真言宗豊山派寿徳寺の境外墓地となっている場所に、元新撰組の二番隊長の長倉新八が作ったもので、墓の中央には「近藤勇宜昌、土方歳三義豊之墓」と書かれています。
隣には長倉新八の大きい墓が建っています。
しかし三鷹市 竜源寺にも近藤勇の墓があり、うーん どっちが本当なのだ(笑)
お墓修復工事中でした。
中山道最初の宿場町ですから本陣跡やらがありそうですが、跡だけです。
本陣一軒、脇本陣三軒、旅籠屋五十四軒ありました。
良い感じの銭湯も残っています。
商店街沿いに走ると加賀藩屋敷跡。
ぐるっと廻ると公園があちこちにあり、全てが加賀藩屋敷跡の残りです。
観明寺山門も加賀藩屋敷内の通用門で赤門を呼ばれていました。
東大の赤門と同じですね。
板橋区の名前の由来の板橋に。
石神井川にかかっていた木の橋だったそうです。
いまはコンクリート製ですがそれっぽい作りにしてありました。
春は桜が綺麗だろうな。
しばらく行くと縁切り榎です。
榎はもうありませんでしたが、榎の皮を煎じて別れたい相手に飲ませると縁が切れたとか。
ああ 恐ろしい。
皇女和宮が将軍家に嫁いだ1861年(文久元年)、皇室の威信をかけた行列3万人はこの縁きり榎をさけて中仙道を通ったそうです。
しかもこのとき縁切り榎木は根元からすべてこもですっぽり隠されたそうです。
その後本郷に戻り文学散歩食い倒れポタを行いました。
巣鴨で肉まん→ケーキ→大和郷から本郷通りへ→育文館高校の路地から漱石猫の家→鴎外の家→旧安田邸→高村光雲光太郎の家→宮本百合子の家→スズキのメンチ→夕焼けだんだん→10円饅頭→菊見せんべい→蛇道→根津教会→井泉のカツサンド→神田明神→天埜屋の甘酒→おりがみ会館→給水所公園横を通って→忠也坂→楠木→弓町本郷教会→石川啄木旧居跡→ふるさと歴史館→坪内逍遥、正岡子規旧居跡→金田一京助旧居跡→宮沢賢治旧居跡→樋口一葉の井戸→伊勢屋質店→路地巡り震災後に作られた昭和の家並み→菊坂コロッケ→徳田秋声旧居跡→尾崎紅葉、二葉亭四迷旧居跡→求道館→本郷舘→東大→本郷中央教会→かねやす
以上で終了です。
寒かったです。
皆さんお疲れ様でした。
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